三国志の武将達 ~ 袁術
若い頃は豪放で義侠心があったという。孝廉に推挙され地方や中央の職を歴任した。何進が宦官に殺されると袁紹と共に宦官の虐殺を行った。のち董卓の推薦で後将軍に任命されたが董卓を恐れ南陽に逃亡した。ちょうど孫堅が南陽太守の張咨を殺害したところだったので南陽を支配し反董卓連合に参加した。南陽は豊かであったため贅沢をして税金を盛んに取りたてた。袁紹や劉表との仲にひびが入ると 公孫[王賛]と結んで対抗した。劉表に糧道を断たれると軍勢を率いて袁紹陣営の 曹操を攻めたが敗北が続き揚州に逃げ、その地を平定して寿春に本拠を定めて支配した。195年冬、献帝が 李[人寉]らに敗れると配下の者を集めて「漢王朝は衰弱し世は乱れている。袁家は四代に渡って繁栄を極め、人望を集めている。今人々の期待に答えたいと思うが諸君はどう思うか?」と問うと主簿の 閻象に反対された。結局197年に皇帝を名乗り、祭祀を行い、後宮に美女を集めたが、配下の兵士は飢えと凍えに苦しむ様であったという。また当時同盟関係にあった呂布に使者を送ったが呂布はその使者を捕らえて曹操のもとへ送り、使者は殺された。激怒した袁術は配下の 張勲を派遣し楊奉、韓暹と協力して呂布を攻めたが、楊奉らの寝返りにあって敗北した。9月に陳へ侵攻したが曹操が軍を率いて向かっていると知ると軍を棄てて逃げ出し、橋ズイ らを守りに残したがすべて曹操に討ち取られた。呂布と曹操に立て続けに敗北し配下の 雷薄、陳蘭を頼ったが受け入れてもらえず、袁紹に帝位を譲ろうとして青州の袁譚の元へ向かおうとしたが途中で病死した。ちょうど夏の盛りで袁術は蜂蜜の入った水を飲みたいと思ったがそのようなものはなかった。「袁術ともあろう者がこんなざまか」と言うと一斗もの血を吐いて死んだという。棺は親族の袁胤によってかつての配下、 劉勲の元に運ばれたが後に劉勲は孫権に破られ、袁術の楽隊や女官は孫権のものとなった。